頭はホント自由にならない
わからない。憶えられない。できない。試験勉強する身に起きる、おなじみの問題である。同じ人の子。受験生の抱える問題はだいたい決まっている。結論から言えば、こうした「わからない」「憶えられない」「できない」等の勉強問題については、あまり過度に、深く考えないことが大切である。というのも、考えてみたところで仕方がないからだ。 もっと言うなら、熟考してもそれで解決するわけでもないからである。深く考え込んでみたが、ただ疲れただけのことは、本当によくある。泰山が鳴動してもネズミは一匹なのだから、噴火するほどに考えても、結果的に、ダメ時間と無駄エネルギーを使っただけのオチになりかねない。ことわざ「下手な考え休むに似たり」は、真理の1つである。 そもそもである。わたしたちの身体からして、自由が効かない。わたしたちは身体を自由に動かせるように思っているが、その思いは事実にそぐわない、非常に誤ったものである。わたしたちの身体は、わたしたちがそう簡単に動かせないようになっている。たとえば、ダイエットなどは、身体が不自由ないい見本である。 もし、わたしたちが身体を自由に操作できるなら、ちゃちゃっと胃を操作して、脂っこいところは消化せずに済むはず、である。甘いものの甘さだけを堪能して、吸収できないようにできるはず、である。摂取カロリーを脂肪にしないことだってできるはず、である。しかし、現実はそうでない。わたしたちの意思などお構いなしに、胃は食べたものを消化し、腸は栄養を吸収して身体に蓄える。 手足くらいであろうか、わたしたちの意思でよく動かせるところは。しかし、たとえば、薬指の第一関節だけを曲げるといったことは、簡単にはできず、意思の力を動員して暫く訓練して、ようやくそこだけを曲げられるようになる塩梅である。結婚指輪を薬指にはめるのは、「自由にならない」ことを暗に喩している、と考えるのは飛躍だろうか。 言ってしまえば、五感もそうである。わたしたちは、見たり聞いたりすることをコントロールできない。何でも見てしまうし、聞いてしまうし、臭い・匂いを感じるものだ。人は、その意思で五感をどうしようもないから、香水やお洒落といった文化を思いついた、と考えるのは飛躍であろうか。フェティッシュは貴族のたしなみといわれていた。 だからこそ、わたしたちは、身体や頭が自由になるものと、混同しやすいのであろう。わたしたちの意思や意識は、わたしたちの身体や頭と、切っても切れないくらいに身近であるからこそ、自由になる、好き勝手になる、と思ってしまうのであろう。つまり、勉強したのだからできて然るべき、憶えて然るべき、理解して然るべきものと考えてしまうのである。 しかし、先に見たように、わたしたちの意思や意識で自由になる器官は、あまりない。あっても、生命体にとって、生命の維持に致命的な影響を及ぼさない、いうなれば、価値の低い器官だけしか自由にならないだろう。だから手足はわたしたちの自由になるが、脳、心臓、呼吸器、内臓は自由に動かせない。わたしたちの意思や意識など、生命の観点からすれば、そのレベルなのであって、生命のコアには届かないのだ。 さて、本題の勉強問題に戻る。わたしたちは、「あーすれば、こーなる」日常生活に営んでいるためか、つい、その日常的な感覚を身体や頭に持ち込もうとしてしまう。しかし、身体と頭は自由にならない。冒頭で見た勉強の諸問題は、いうなれば、わたしたちの普通の状態・自然の状態と言える。理解や記憶、「できる!」といった頭の状態は、わたしたちが簡単に自由にできるものではないし、こちらの都合で動くものではない。 しかし、全く自由が効かないかといえばそうではなく、(ワカランなあ)と思いつつもやっていっていけば、できたりわかったり憶えたりする。勉強したこととその成果は、わたしたちの「頭」ゆえに、『時間差』があることを知っておくべきである。 試験勉強をしていて、多少できなかったり、わからなかったり憶えられずとも、それが普通だ、「頭」というものはそういうものだくらいに思って、その時はそれで済ませてしまえばよい。目の前のことを淡々と丹念にやっていけば、後から結果は付いて来る。自分を信じるとは、自身の身体や頭の仕組みを知ることでもあるように思われる。 |
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