余計な失敗をしないために

思い違いをしていたことがある。それは、何かしらのうまくいく方法や、成功するやり方を採れば、そっくり結果が付いてくる、と考えていたことである。成否は、やり方や方法の選択如何にかかっており、それを探し出すことが「行なう」ことであった。当時は、まずやり方や方法論ありきだったのである。

 

恥ずかしいことながら、うまくいく方法と成功するやり方さえ見つけてしまえば、事は為る、と考えていたわけだ。このため、その当時の数年間は、「行なう」ということが、方法ややり方を調べて探し出すことになってしまった。当然のことだが、どこからかよさげな方法ややり方を引っ張ってきたところで、事がうまく運ぶわけはなく、失敗の山だった。

 

後々で振り返ってみれば、失敗恐怖症に罹って、単に失敗を避けたいだけだったのだが、余計に失敗したという顛末である。要は、方法とやり方を模索することが「行なう」ことになっていたという、理屈先行人間によくある話だ。そのときは、よくよく考えてみれば見えてくる巨大な穴に、ちっとも頭がまわらなかったのである。

 

仮に、そのやり方や方法論でうまくいったとする。しかし、それは、成功といえるのだろうか。あるやり方なりある方法論で、うまくいったのであれば、そのやり方や方法論が優れていただけであって、当の本人は、証明の一素材・一材料に過ぎなかったこととなる。成否の要は、やり方や方法論であって、当の本人は完全な脇役となる。空しくはないか。

 

そして、次に何かをやるときは、また、うまく行く方法なりやり方を探すことになる。そんな「わたし」は、賢いことになるのだろうか、愚かなことになるのだろうか。

 

もっと言うなら、やり方や方法を追い求め、幸運にも成功に次ぐ成功があったとする。そして、とうとう、トップに立ったと仮定しよう。もう頂点なのだから、他のところに、やり方や方法を求めることはできない。そのとき、「わたし」はいったいどうするのか、といった次第である。また誰かが、やり方や方法を思いつくのを待つのだろうか。まとめて本にするのを待つのだろうか。裸の王様という形容がとてもしっくり来る。

 

わたしたちが忘れがちなのは、わたしたち自身の経験の固有さである。わたしたちが経験することは、わたしたちに自身にしかできない固有のものである。情報が入っては出ていく現代では、自分の経験が妙に希薄する世の中に生きている。

 

しかし、当たり前のことだが、わたしたちの経験は、何事にも替え難いものである。他人が経験したからといって、自分が経験したことには、絶対にならない。

 

経験は、その経験が当人にとって大切になるほど、代替も効かなくなるし、借りて済ますこともできなくなる。恋愛談を聞けば恋愛をしたことにはならないし、恋愛小説を読めば、恋愛を一時的にしたつもりにはなるだろうが、自身が恋愛をしたことにはならない。安全で安心、保証の効いたところで恋をして、何をしたことになるのか。情報として知ることは、経験したこととは、まったく違うことである。逆を言えば、代替が効く経験など、生きる上で大切なことではないのだ。

 

物事を行なうというのは、どこまで不確実なことを引き受けるか、にある。未知なるものに対して、判断を研ぎ澄ませ、2つの眼を開いて索敵・偵察・探索する。知恵が足りないのなら本を読んで補い、知識が足りないのなら、本を読むなり、データや資料が刊行されていないかを調べたりして、追加していく。そして、実際に行なっていることと、頭の中で進行していることとを照らし合わせ、擦り合わせていく。

 

どこにあるか定かでないやり方や方法をあてにするよりかは、よほど、こちらの方が確かな経験となるだろう。よほど、アイデアや名案、打開策が見つかるであろう。そして、よほどに、自分の力となるだろう。

 

冒頭で、やり方や方法を先に求めたのは、失敗を避けたかったがためだと述べた。失敗を過大に評価して躊躇していれば、動きは格段に鈍く遅くなって、経験の機会が減ってしまう。どこぞのコンサルタントや著名人の思いつきや、研究所で培養された方法ややり方を模索するあまりに、自分が経験することを甘く見てはいないか。

 

もっといえば、そもそも、やり方や方法論の発案者は、いったいどこでそれを得たのか、という話になる。彼も、わたしたちがするのと同じように、誰ぞの言、どこぞの理論書、何かしらのデータ集から、やり方や方法を引っ張ってきたのだろうか。やはり、彼らにしても、自身の経験から咬み出したものであろう。

 

自分でやってみることが、昔も今も変らない成長や成功の源泉である。物事を運ぶ上で、試行錯誤して経験することは、唯一の方法であるとは言わないが、事を為すにあたって確実なやり方であるように思う。最初からどこぞの外にある方法ややり方を頼むのは、それこそ余計に失敗していることにならないだろうか。まずは、我が内を見よ。

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