限界なんて

 「限界なんてない」と言う。しかし、それは本当だろうか。まず、主語をはっきりさせてみよう。一体全体、誰の限界がないというのか。よく耳にするのは、「人間に限界はない」という言である。

 しかし、人間という種・属について言われても、範囲が広く意味も茫漠としてよくわからない。人間のうち一体誰の限界がないのか、と発言者に尋ねれば返答に窮すだろう。なぜなら、その言は耳に心地よいだけで、何も語っていないからである。

 ではここで、仮に主語の部分を「彼」「彼女」としてみよう。「彼に(彼女に)限界はない」といわれれば、何やら凄そうな予感はあるけれども、それでも何について述べているのかよくわからない。彼(彼女)の何に限界がないというのか。

 たとえば、「彼の食欲には限界がない」とか「彼女の美への意識は限界がない」といわれれば、我々は彼・彼女の人となりをあれこれ思い巡らすことができる。最低限、誰の何に言及されてようやく、限界のない意が通じるのである。

 しかし、限界がないといわれることを詳しく見ていくうちに、我々は熱気から醒めて行く感のあることを否定できない。限界がないことを細かく見ていくほど、それは一種の修辞であり、実際には限界があることがわかるからである。

 逆にいえば、限界がないと困るのは、当の限界がないといわれる人自身なのである。限界のない食欲の持ち主は、限界のない消化能力が必要になるし、限界のない食費が計上されることになる。美においても、老化をなくすことができない以上、どれほど美を追い求めて若づくろうとも、綺麗に年を取った人の美には適わない。美しさとは相応しさでもある。美へのこだわりはときにはグロテスクに映えるのであり、美の渇望が逆に美を損ないかねないのである。

 そして、もし、我々に限界というものがなく、無限の可能性があるとするならば、どうなるだろうか。チャンスや機会といった可能性が無限に、つまり、常に、いつでも、どこにでも、大量に数限りなくあるならば、我々は才能や能力、熟練や習熟に価値を置くことがなくなるだろう。いや、正確に言うと、それらは我々にとって必要がなくなるのである。なぜなら、物事がうまくいかずとも、無限にある次の可能性に委ねればいいからである。いうなれば、全てのことは、うまくいくまでを待つだけの話となる。そうなると、そこは、素人や玄人、入社したての新人と勤続15年のベテランの差がない世界である。全てはうまくいくだけを待つの運・不運の問題になるため、誰も何かに上達しようとは思うまい。何というつまらない世界だろう。限界なんてない・可能性は無限などというのは、運頼みの人を増やすだけで、賢明な意見ではないように思えるのである。

 また、「限界がない」という言は、副作用も大きい。ある分野において限界のない働きを見せたといえども、ほかの分野ではそうはいかない。互いの分野がどんなに似ていて、また、通じるものがあったとしても、である。類似というのは多くが似てはいても、ぎりぎりのところで違うからこそ、類似なのである。類似は同じではない。絶対的に違うからこそ、類似するといわれるのである。しかし、「限界がない」という賛辞を受けてきた者は、違いや差異を無いものに、または、過小に評価し、かつてうまくいったときの方法に固執しがちである。かつての限界がないと評された経験が、新たな分野では邪魔になることは多々ある。「いま見よ、いつ見るも」と柳宗悦は言う。

 とはいえ、「限界はない」という言には、見るべき点もある。この言には、勝手に壁を作るなという意味が込められていることを忘れてはいけない。少し見聞きかじっただけで、ちょっとやっただけで、物事に限界を設けるのは愚かというわけである。我々は、限界はないとは考えないけれども、限界を正しく知る努力は怠ってはならない。実地に見聞きし、試し、詳しい人に尋ね、方法を模索し、工夫しアイデアをひねり出して、限界を知ろうと勤めねばならないのである。

 正しく知った限界は、我々を縛る否定的なものではなくなり、新たな可能性を生むものとなる。もはや、限界は限界ではなくなるのである。なぜなら、ひとつの限界を知ろうとする過程は、できる・できない、できそう・できなさそうを判別する練習になっているからである。我々は限界を知る過程で、できることとできないことがはっきりする。そして、新たなできる・できそうを発見し、できることへは確かな自信を、できないことには、慎重なる知恵と助力を呼ぶ謙虚さを得るのである。我々は限界を知ることで、資するものを得るのである。

 己の限界を知ることは、自身を知るひとつである。自身について知ろうとするのは、生活の上での便利な処世訓、たとえば、挨拶をしよう!とか早起きは3文の得といったものでもあるのである。古人は、汝自身を知れといった。

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