見えないゴミを捨てる

 これまでに、いつか使うと思っているものは捨てるように、集めたものもせっかくだが捨てるように、そして、思い出のものも思い切って処分するように述べてきた。しかし、我々の周りにひしめくゴミ・ガラクタの類はこれらばかりではない。買ってもほとんど使わなかった健康器具・ダイエット用具、エクササイズマシーンがある。要修理の半壊品、処分に費用がかかるのでいつの日か捨てると思いつつそのままにしている家電製品・電気器具、小型機械類がある。自治体のゴミに出せないので庭の片隅で錆付いている粗大ゴミがある。こうしたゴミ・ガラクタも、できるだけ速やかに捨てていかねばならない。

 どうして捨てなければならないかというと、第一に我々の認識の問題を挙げることができる。我々は眼に入るものを選ぶことができない。見たものは見たものとして、何らかの形で一度は処理することになる。ゴミやガラクタを眼にしたとき、我々は不快な気持ちや捨てねばと思いを抱く。しかし、それができないときはゴミ・ガラクタの存在を無視したり見ないようにしたりする。

 しかし、こうしたゴミ・ガラクタの取り扱いはただ疲れるのみである。無視するのも疲れるし、意識しないようにするのも手間を食う。ゴミ・ガラクタに由来する疲労や手間、そして時間は、ゴミ・ガラクタの量に比例して増えることを考えれば、トータルで見れば少なくないのである。この現象を逆の物の側からいえば、ゴミやガラクタは我々のエネルギーを吸い取っているといえる。一度捨て損ねたゴミを捨てるのは多大な意思の力が求められるが、それはゴミが我々の活力をえんえんと吸い取っているから、とはいえないだろうか。何年も捨てようと思っているだけのゴミを前に、ぜひ自問してみて欲しい。このように、我々は、身近にゴミ・ガラクタがあるだけで、有限の資源である意欲と時間とをつまらないことに費やしていることになるわけである。

 捨てるべき理由はまだある。それは、「類は友を呼ぶ」現象である。ゴミは新たなゴミを呼ぶのである。理屈は単純である。あるAというゴミ(たとえば、本)があるとする。Aを捨てられずに取っておくと、次第にAに似たBというゴミ(たとえば、文庫本や雑誌)がAに呼ばれるが如く増えてくるのである。Aが捨てられないならば、同種同類たるBやCも捨てにくくなるのも道理である。かくして、類友であるゴミの一群が部屋を占拠していくのである。全く独自のゴミはない。ガラクタは突然生まれない。ゴミ・ガラクタが増えるのにはある一定の法則なり共通項があるのである。

 それにもうひとつ、根拠は薄弱ではあるが、ある理屈を紹介しておきたい。家相学という卜占がある。家相学とは、家の位置や方角、構造で家人の吉兆を占うものであるが、占いだからといって甘く見ることはできない。わたし自身、詳しくは知らないので深く立ち入らないが、合点せざるを得ない点は多々ある。最もわかりやすいのが、玄関周辺の様子でその家の状態がわかるということである。玄関がきちんと整理されていて、ゴミやガラクタの類がなく、見た目もきれいで、植木の花も生き生きとしているなら、その家の住人はいい運命に向かっているというのである。

 逆に、ゴミの類が積み重なって植木は枯れ、季節外れのガラクタが放置されている玄関の一家は、うまくいっていないというのである。納得できるものがあるのではないか。潰れる会社は玄関でわかるという。今度、散歩に行ったときにでも、易者にでもなったつもりで家々の玄関を見て歩くと、その家の空気というか運命の予兆らしきものがわかるであろう。

 以下は私見である。凶悪事件やトラブルの起こった家というのは、大概散らかって乱雑な風である。マンションであれば、ベランダがゴミやガラクタの山であったりする。治安の悪い地域のゴミ捨て場はめちゃくちゃである。ニュース番組で事件の報道があったときは、舞台となった家がどういう状態かなっているかを注意深く見て取って欲しい。大概、ゴミ・ガラクタで溢れ混沌としているだろう。ちなみに、失踪したわたしの友人の部屋はゴミの山で、玄関だけでなくマンションの共有部分である廊下にまでゴミ袋が溢れていた。過つことを覚悟していえば、ゴミ・ガラクタは、住人の何か将来を物語るのである。机が乱雑で部屋もめちゃくちゃな人が何らかのトラブルに巻き込まれたとき、我々は意外と思うよりかは、さもありなんと思うものである。

 古人は、汝自身を知れといった。しかし、なかなか汝を知ることは難しい。自分では自分が見えないためである。であるから、我々は己を推し量るしかないわけである。この推量のいい材料となるのが、これまで見てきた家や部屋の状態、つまり、ゴミやガラクタの有無なのである。我々は、身の回りの状態で、汝自身の状態をある程度正確に把握できるのである。長々とゴミを放置する人は、心を悩ましている積年の問題があろうし、ガラクタの類を溜め込む人は何かに飢え渇望し不足感・窮乏感に苛まれているものである。家・部屋の状態は、かなりの精度で我が身を写しているのである。

 ならば、である。我々は、身の回りのことをもって、自分の目では見えない、また、他人からも見えない何か内面的なものに対して、コントロールを及ぼすことができるのではないかと考えるのである。

 先だってのコラムにて、わたしは、物にはエネルギーというかオーラというか、何か的なものが含まれており、我々はそれらを養分として吸収し、内面の成長の糧としていると述べた。しかし、何か的なものを吸収するとはいえ、何か的なものを100%吸収しきることができるものであろうか。食べ物と同じように、摂取しても幾分かは残るのではないだろうか、吸収した後の残りかすのようなものはできないのだろうか、と考えるのである。我々は多くの物によって内面的な成長が促されるも、同時に、成長の代償も蓄積されていく、というわけである。わたしはそれを、精神の老廃物と呼んでいる。

 物を捨てる大切さを強調するのは、我々は、捨てようとする物に精神の老廃物を託して身体から排出しているように思えるからである。というのも、溜まったゴミや積もり積もったガラクタを捨てたときの爽快感は筆舌に尽くしがたいものがあるからである。まるで、病み明けに入ったお風呂のように、全身から垢やら汗やらその他が洗い落とされ、全身こざっぱりしたあの感じなのである。精神の老廃物と明言できなくても、何か気持ち的に大きくさっぱりするのは間違いないないと断言できる。しかも、そのさっぱり感は長期間持続する。かつて場所を占めていたゴミ・ガラクタのあった空間を見るにつけても、(ああすっきりした、清々した)という感を何度も味わうことになるのである。こうしたことも、捨てることによって何かが出て行くということを否定できないように思うのである。

 思うに、我々の身体には、精神の老廃物を自然に排出する機能が備わっていないように見受ける。原始の自然状態は物が溢れる状態ではなかったからであろう。思えば、昨今のように物が身の回りに溢れるようになったのは、この1〜2世紀に至ってからである。当分我々は、自分から意図的に、そして、今の倍は能動的に、ゴミ・ガラクタを捨てていかねばならないだろう。ゴミやガラクタを捨てるのは、住居の空間やスペースを取り戻すだけではない。自然と溜まる目には見えない精神の老廃物を、物に託して排出するためでもある。我々は、ゴミとガラクタを捨てることによって、身の回りの環境と内面の改善とを享受できるのである。それは、新しく生きるようになるといっても過言ではあるまい。

 これで、物々品々を捨てる理由と意義が掴めたかのように思う。家中をめぐって捨てるべきものをリストアップしていこう。ゴミ袋を30枚は買うことを推奨する。すぐにゴミでいっぱいになる。無いと思っていても、本当にゴミ・ガラクタは出て来る。また、マジックや紐・テープ、はさみカッターの類の準備を怠ってはいけない。ついでに、処分用の箱を用意しておく。ガラクタを「捨てる」「未決」「保管」に選り分けるために。そして、ゴミの日を調べてカレンダーに赤丸をして、その日に捨てるものをまとめて一箇所に置いておこう。リサイクルショップや古本屋の場所と営業時間をも調べておこう。何しろ片付けは朝からやっても夜まで至るものだから。自治体では処理できないゴミを引き取る業者をネットで見つけよう。家電等の処分にかかる費用を見積もり今日中に銀行からおろして封筒に入れておこう。マジックでゴミ代と書いておくのを忘れずに。これで準備は完了。あとはリストの片っ端から迷うなく捨てていくだけである。捨てて後悔することはめったにない。本当に、ない。

 古人は、本当に大切なことは目には見えないといった。ゴミやガラクタが見えなくなるにつれて、我々は、本当に自分が大切にしたいものが見えてくるように思う。

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