時間への意識

旅上手の人がいる。聞けば、どこかへ旅行に行っている。旅行は、これまではどこかで一泊するものであった。しかし、いまや多くの旅は日帰りが可能である。もちろん、新幹線の通っている駅まで行くのに時間がかかるかもしれないが、いったん新幹線に乗れば京都旅行など日帰りが可能なのである。朝の9時に新幹線に乗れば、京都に行ってひとつかふたつ観光して湯豆腐でも食べて京言葉を満喫して紅葉に目を楽しませて、夜には帰ってこられるのである。大型スーパーに行くほどの時間で京都に行けれるのである。

別に京都でなくてもよい。金沢で実にうまい回転寿司を食べて帰ってこれるし、由布院の温泉でひと風呂浴びてこれるのである。家族に、会社に、コッソリ行って帰ってこられる時代なのである。マンガ喫茶に行く時間があれば、行きたいなぁと思っていたところにいける時代なのである。ぐずぐずして、アーダコーダ考えるほうが、実のところ、もったいない話なのである。

試験勉強には、やはりまとまった時間が必要となる。細切れ時間ばかりでは、どうしても理解まで至らない内容、単元科目にぶつかるものである。細切れ時間は暗記や確認には有効であるが、だからといって万能ではない。ときには、テキストのある部分の記述を何時間でも追わなければならない。

時間についてである。勉強のための時間は、確保するしかない。そのあたりに落ちているものではない。意図的に確保していかないと、どこにもない。さりとて、ただでさえ少ない睡眠時間を削るわけにも行かない。事故の元、病気の元である。

ならば、今ある時間を見直すしかない。そう、生活にある悪癖・悪習・悪因への対峙から、試験勉強は始まるのである。無駄な時間を退治して勉強時間に充てるのである。しかし、なかなかにできるものではない。われわれは習慣の生き物である。また、悪癖・悪習・悪因が全てまったき「悪」であるとは決め付けられない。いいリフレッシュ気分転換になっていることを無視はできない。急激な生活、行動の変化はゆり戻しが起きて、元の木阿弥になるだけである。ストレスも溜まる。意図して一気に変わることはできない。恋か愛か、失業くらいである。

それでは、漸進的に行動を変えるにはどうしたらいいのだろうか。最新のモチベーション理論であろうか、きちんとした動機付けだろうか、果てには精神力か、悟りを開かねばならないのだろうか。どれもお金と手間と時間がかかりそうだ。われわれは、1年間程度、試験勉強を行う勉強時間を確保したいだけである。何年・何十年もの行動変化は、ハナから求めていないはずである。

手軽な行動変化は、時間への意識を変えることである。「この時間で何ができるか」と考えることである。ウダウダグダグダするとき、心の底では何かしようと思っても、「もうこんな時間だから何もできない」と思っているものである。時間意識は、究極的にはこの2点、「(この時間で)できる−できない」間を行きつ戻りつしているものといってよい。

かくいうわたしもそうだったからである。偉そうにはいえない。先ほどの「京都日帰り」など、実に自分の時間意識を変えてくれたのである。

単純なことである。「1日あれば、京都に行って帰ってこれる」という事実である。土曜日半日以上あれば、前から行きたいと思うところにはスグにいけるのだな、と改めて生活を見直したのである。旅行を念頭に置くと、これはやめてもいいな、この分のお金を回したらいいな、と思う部分がたくさん出てきたものである。それも必要だと思っていたことを。この時間のためにどうすればいいか、どうしていけばいいか、どう無駄を排していけばよいか、というアイデアが生まれてきたのである。新たに習慣を見直して矯正したり、新しい行動様式を身につけたりするよりかは、よっぽど手軽だったのである。時間への意識変化に、行動がついて来るのである。

時間とは可変するものである。古人は、融通無碍、自然の体現として、「水」に思いを馳せてきた。「水は方円の器に従う」「褒貶寄与の間と雖も水の如く清し」などと、水の自由度、囚われのなさを語った言は多い。しかし、時間は水以上に変化するものである。恋人であったとき時は短かった、しかし配偶者となってからは鉛のように重く鎖のように長く感じるように、時間はいくらでも可変的に感じるのである。

「〜しよう」と思ってもしなかったり、「〜しない」と決意してもしてしまうことはある。多くは時間への意識が欠如しているからである。単純な禁止や命令では、人は動かない。他人然り、本人然りである。「この時間があれば」「この時間内であれば」「この時間だけでも」と考えることである。うまく時間を使えという。それは、時間への意識変化のことなのである。時間はいくらでも、無限の変化に富んでいる。時間への意識はいくらでも変えられる。時間への意識が変わるからこそ、行動もそれに応じて変わっていくのである。

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