絵馬を見よ、絵馬を
さくら散る人ごみで爆笑した。「先生に怒られませんように」。時は春、春はさくら、さくらの名所は神社仏閣、京都のあちこちを散策しときに見つけた絵馬の「お願い事」が先ほどの先生云々である。 笑みがこぼれるとはこのことである。マジックで大きくしっかり書かれた字体を見るだけで、ヤンチャな坊主であることがわかる。それにしても、先生に怒られないように、とはいったものである。なかなかこう具体的な願い事はできない。 「サイン(sine)・コサイン(cosine)・タンジェント(tangent)が自由に使いこなせますように」と、三角関数マスターしたい旨のお願い事もあった。一読してまじめ、眼鏡を掛けていそうな女子高生が目に浮かんだ。そして「ほほう、この願いは叶うだろう」と疑いなく思ったのものである。 お願い事の大半は、中途半端か抽象的だからである。一読して何のことやらわからない。「どーしたらええねん」という願い事が多いのである。自分が神様になったつもりで考えてみよ、と思うのである。 「〇〇クンと幸せになりますように」と定型的な絵馬ある。「せうですねぇ。。。がんばってくださいまし」としかいいようがない。わたしが神さんになったら、嫉妬深い神さんになるので、「勝手にやったら」と次の絵馬に目を通す。なにをしたらええかわからないからである。 そもそも考えてみよ、神様というのは、嫉妬深くヒステリックである、菅原道真公をみよ、死んで復讐を果たしたではないか、恐ろしく気ムズカシ屋だからニンジン大根みかんにリンゴ、お酒にお味噌、お醤油まで奉納するのである、お供え物するだけでなくお金も包むと鳴らした鈴音も鈴緒も心なしか軽くなるもの、そんな神様によくもまあいえるなぁと思うのである。せめては神さんが耳を貸すように書かないか。 「家族全員が健康でありますように」−気持ちはようくわかる。気立てのよいおかあさんが目に浮かぶ。最近とみにたくましく落ち着きを持ち出したおとうさん、小学校就学前のおこさんふたりが和気藹々と絵馬を前にしたことが目をつぶってもわかる。 しかし、わたしは嫉妬深い神さんである、そして了見が狭い。「気持ちはワカランではないんだけど、どしたらええねん、おまえんとこ一家に張り付いて、なんや、病気やウイルスや怪我しそうになったら助けなアカンのかなぁ?」と言い出すのである。 それより「父の病気を治してください」「〇子の病気が治りますように」とあれば、「よっしゃ、やったろか」と思うものである。病気はカルテを見ればわかるし、病院までなんて新幹線でひとっとびの神様のわたしである。夜コッソリとカルテを覗いて、チチンプイッと直してあげれれるだろう。なあに名乗るほどでもなし。 要するに、願い事というのは一読し「よっしゃやったろう」と思うものでなければならないのである。神様も忙しい、いつほかの神さんに仕事を取られるかわからないのが現状である。たくさんの仕事を抱えた中で、絵馬を見てくださっているのである。本宮の建て替えもせなあかんし、出雲に会議に行かねばならないのである。檀家檀那に挨拶のひとつもしないといけないだろう。盆暮れ正月のあいさつを欠かせばどうなるかわかったもんじゃない。そうこういううちに、夢枕に立つ人リストが巫女によって作られ、社長秘書並の宮司に急かされていよう、神様も楽じゃない。 であるからこそ、神様が絵馬を一読して叶えてくださるように、細かく端的にお願い事をしなければならないのである。「。。。えーだから、どーしたらいいのかしらん?」なる疑問が湧く絵馬に、神様は時間を避けられないのである、一読してスグに次の絵馬に行くことは想像に易い。仕事は山積みである。結果、よくわからない願い事の絵馬は、未決事項としてお蔵入りになるのである。 「〇〇クンと幸せになりますように」のような女子中学生ならまだしも、いい年齢のOLがやろうものなら、「あっそ」のひと言でお神酒を手にして、「まだわかっとらんのう」と、「どーしたらええのん?結婚?お付き合い?ライバル蹴落とし?」と愚痴りながら次の絵馬に向かうのである。「愛人に天罰を、天誅を!〇〇〇〇やる!!」とあれば、「まー奥さん、事情を調べて追って悪いこと起こしときますんで、今日のトコはコレでお引取りを」とでもいえるのである。さらさらっと部下への作業指示書も書けるだろう。 神様でさえそうなのだから、いわんや我々をや、である。試験勉強には計画性が必要とされる。日程日課目標目的の類のことである。この種は、少しでも具体的にしておかないとやらないのである。細目に至らない目標など全くの無意味である。「痩せる」で痩せた試しなし。かくいうわたしも、手帳に「毎日1時間の運動」と書いてもやらずじまいなのである。ところが「散歩、腹筋50、ウエイト」くらいに細かく書いておくと、「おお、カラダうごかさなアカン」とエレベーターを階段に、自転車バイクのところを歩くように、歩くところを競歩早足になる。個別具体的だと実行度が高いのである。 人間は機械の面がある、コンピューターの面がある。日程日課予定計画、これらはプログラムの一種といって過言ではない。バグもないちゃんと書かれたプログラムなら、きちんと機械は動くものである。しかし、作業量が適切でなかったり、ピントハズレだったり、表現が曖昧だと、エラーと出て動かなくなるのである。 わたしたちは、決してルーズでだらしのないものではない。動かすプログラムが悪いだけなのである。特に勉強はそれが顕著である。「これどーしたらいいの?」と神さんからつっこまれそうな目標目的予定計画はたてないことである。 |
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