曲者のくよくよ

・落ち込むことと、くよくよすること

深く落ち込むことは少ないのが、試験勉強です。極端に落ち込むのは、ただ不合格のみでございましょう。

わたくしたちが、試験勉強中に遭遇するのは、「くよくよ」なのです。

いつも何かにココロが引っ掛かっていて、なんとも気が晴れないという状態を続けねばならないのが、受験生という生き物です。

「くよくよ」がやっかいなのは、他人からみればどうでもいいことにエネルギーを投入しなければならないことにあるのでございます。

試験の関係者以外なら、「しらん」のひとことで済むことに、ココロを砕いているのが受験生の実態でございます。

わたくしたちは、つねに自分自身でモノゴトの意味や評価を下しているものではありません。

誰かが言ったことを、そっくり踏襲している、というのがほとんどなのでございます。

ですから、多くの人にとってどーでもいいことは、やはり、自分がどんなに重要なだと思いこもうとも、どーでもいいという考えを払拭しきることはできないのでございます。

「くよくよ」は深刻ではないため、食欲がなくなったり、眠れなくなったりすることもないのでございます。

ですから、「くよくよ」を、それほど深刻には考えません。

しかし、独学の罠は、「くよくよ」にあります。

やる気を一番損ねるのは突発的な事件や事故ではなく、日常的に感じてしまう心理的な重し「くよくよ」なのでございます。

アタマの上に漬物石を載せて生活せよといわれれば、首はもとより肩、腰、膝にくるのは保育園児でも自明の理でございます。

目には見えませんが、「くよくよ」とは、漬物石を持って生活しているのと同様、必ず日々の身心に影響を与えているのでございます。

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「くよくよ」と、いつまでも思い悩み、気にしてしまうのは、時間の多くを些細な知識・微小な選択肢に費やさねばならないからでございます。

Aという問題、Bという問題と、多くの問題は外見上では違っていても、本質的な作業は同じことが多いのでございます。

「どーでもいい」という認識の根源は変わらないのです。

ごくまれに、実際の実務の上で、または、資格試験の制度上重要な概念だったのかと目からウロコが落ちるときがあるのですが、ほとんどは「どーでもいい」事項でして、試験終了後には、汗と涙ともに忘却の湖に流れ込んでしまうのが、常なのでございます。

試験勉強の当事者の実態としましては、どーでもいいことに悩み、苦しまねばならないのが、実際の姿と申し上げることが出来ましょう。

しかも、それほど感動もないし、時々しかおもしろくもない。

細部へのマニアックな喜びはあるけれども、太陽のもとの大乗的な知の喜びはないのでございます。

そして、お勉強が進めば進むほど、小さな小さな迷路に迷い込んでいき、しかも、おもしろくなってくるのです。

つまらないのにおもしろくなってしまうことのが、些細な知識・微小な選択肢の罠なのでございます。

そして、ますます「何やってんだろうねぇ」と、「くよくよ」から一気に世を儚く思うようになり、月にも花にも涙を注ぐのでございます。

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・袋小路に自ら進まねばならぬからこそ

取るに足らない小さなこと、一見して無意味なこと、考えても必要でないことを、やっていかなくちゃいけないのでございます。

ガタガタいったってしゃーないわけでござんす。

試験勉強中は、悩み甲斐がない事柄によって、自己評価が決まってしまうのでございます。

しんどさを感じるのは、このような構造下にあるからでございます。

ですから、試験勉強というのは、その他のお稽古ごとに較べれば、はるか光速にてやる気がなくなっていくのでございます。

試験に合格するためには小さくて些細な事柄にこだわらざるを得ず、どうしてもくよくよしてしまいます。

くよくよしたくないけど、こだわらないと合格できないし、ひいては自分の目標・目的を達成できなくなっているのです。

逆にいえば、真面目に取り組む人ほど、くよくよしてしまうものなのでございます。

あーすればこーなる2重の構造、無理を通せば道理が引っ込むアンビバレント、嫁を立てれば母が泣き、母を立てれば嫁が魔人と化すが如き、百鬼夜行が修羅の中にわたくしたちは存しているのでございます。

やる気というのは、、勉強自体からは出てこないのでございます。

無尽蔵に生まれているものではないのでございます。

やる気は、選択肢の解説や、テキストの記述から得られるものではないのでございます。

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『今やっていることは、自分の人生の中でどんな位置を占めているのだろうか?』

試験勉強という、小さなことを考え・憶え・試されざるを得ない状況にいるからこそ、今やっているお勉強を含め、大きな文脈で考えていく必要があるのでございます。

このような問いは、試験勉強にとっては諸刃の剣でございます。

諸刃の剣ですから、傷つくこともございましょうが、使い慣れ、習熟しないといけない思考軸でございます。

やる気というものは、大きな文脈の中でしか、見出すことが出来ないのでございます。

女房・子供、旦那の瞳にもございません。上司の期待のこもった視線にもございません。恋人の熱を帯びたまなざしにも、カバンの中も机の中を探したけれども見つからないのでございます。

ガソリンはスタンドで補給するように、やる気もそれ相応の場所で補給しなければなりません。

結局のところ、やる気というのは自分で見出し、生み出していくものでしかございません。

ですからわたくしなどは、励ましてください風のオーラを持っている人が近づくと、「保険は利きませんよ」とか「フルーツ頼んでいいですか?」という想いを伝えんがために、目に力を入れ、お尻をすぼめるのでございます。

本当に困ったときは、相談する選択肢さえ忘れるものでございます。

自分という大きな文脈でお勉強を捉えていかないと、あっという間にやる気は「些細で小さなどうでもいいこと」に1滴残らず吸われ尽くされるのでございます。

試験資格というものを、自分という大きな文脈から、将来という大きな文脈で、方向性を持った大きな文脈にて捉えているか、やる気を維持するコツはココにございます。

そして、これがポイントなのですか、「とらえ続けているか」が、やる気を生み出す肝腎カナメな作業なのでございます。

現在進行形でなければならないのでございます。

とはいえ、急に「大きな文脈」といわれてもスイミングアイなので、まーぼちぼちと考えていく方法を次回のコラムでは展開したく存じます。

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目の前のことだけに限定しない につづきます。

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