三日坊主ならぬ3日ずつ坊主

 「三日坊主」という、飽き性を揶揄することわざがある。少なくとも、勉強をする上では、よいとはいえないだろう。

 勉強においては、「毎日」「継続」「根気よく」が定石であり、語られる際の定番でもある。人の発言や書いたもの、そして、わたしの経験からしても、これら勉強の3要素は正しいと考える。そうした方がうまくいったし、勉強効率もよかった。いままでがそうなら、きっとこれからもうまくいく方法であろう。

 というのも、わたしたちはどうしても忘れる生き物だからである。勉強とは、何か新しいことを知ったり、学んだり、考えたりすることである。が、そうしただけでは、あまり意味がないわけで、知ったこと・学んだこと・考えたことが、ちゃんと頭の中に残っていなければならない。
 
 ということは、勉強という行為が完結するには、「憶える」という過程を経なくてはならなくなる。そこで先の勉強3要素が、顔を出すわけである。つまり、毎日やれば憶えるし、継続してやれば憶えはいいし、忘れても根気よく見直せば記憶は維持できるという次第で、どれも、ものを憶える際のコツみたいなものである。

 「三日坊主」が良くいわれないのは、まさに、記憶に逆行する行為だからである。3日の間だけやって、3日目以降は何もやらない。こんなことをすれば、3日のあいだにやったことは綺麗さっぱり忘れてしまう。3日間は全くの徒労である。よくは言われまい。

 しかし、である。確かに「三日坊主」は無駄ではあるが、「3日間はやれた」という事実を見落としてはならないだろう。こうとも言えはしないか。「3日間ならやれる」と。さらに付け加えるなら、「3日間なら続けられる」とも言えよう。ついでに、こんな風に未来を込めた言いもできる。「今は、3日間しかできない」と。

 「三日坊主」を恐れて、眠い目をこすってみたり、気負ってやってみたり、己に鞭打って強いたりすれば、「3」という数字を延ばすことはできるだろう。しかし、3日しかできない者が、心機一転しただけで、急に7日・10日・1ヶ月と続けることなどできやしない。事の次第はそんなに単純じゃない。大概は、三日坊主が一週間坊主になるのが、関の山である。継続の資質が元よりあるなら、事態は三日坊主ではなくて、五日坊主から始まるだろう。

 わたしたちに必要なのは、三日坊主ということがどういうことなのか、一歩進めて知ることである。三日坊主でも「3日」はできるのである。ならば、「3日ずつ」だとできるとはいえないか。

 有体にいえば、3日間やってみたら3日目以降は休んで、また再び3日ずつやっていけばよいではないか、というわけである。つまり、実務的には、3日勉強したら、例えば次の3日休むようにしておく。自分がやらなくなることを、最初から勘定しておくのである。

 もちろん、こうしたやり方は、先に述べた最上のやり方である、「毎日」「継続」「根気よく」には、そぐわない。能率も悪いし記憶のノリも悪かろう。しかし、とはいえ、まったく3要素と外れているわけでもない。

 毎日ではないがやってはいるし、断絶もなく継続されているし、続いている以上は根気がないといえない。が、最低かといえばそうでもない。三日坊主で3日目以降何もしないのに比べれば、勉強の蓄積は格段に違ってくるだろう。

 「3日ずつ」は、最上ではないが最低でもなく、両者の間にあるやり方だといえよう。最上のやり方ができないのであれば、また、最低のやり方で悪い結果を引き受けたくないのなら、その間で手を打つ、というわけである。逆も言える。3日ですらできないのであれば、2日ずつから、1日ずつやっては休んでみて、身体を慣らす方策も採れる。

 そしてもう1つ、付け加えるなら、時の経過によるわたしたちの変化も看過できないのである。三日坊主は3日しかないが、3日ずつのやり方だと、ぐっと長い期間をやっていることになる。

 これから起こりうる自分の変化は、うまく計算できないし確実な予想も付かないが、だからといって無視しなくてもよかろう。3日ずつでもやっていれば、次第に3.1日ずつになる変化も生まれるのを否定はできまい。

 いつもは休む4日目に、10分か15分くらい、試しにやってみることはできる。3.1日ができたなら、3.2日ずつ、3.3日、3.4、3.5とならない謂れはない。さて3.5日ずつできるのであれば、同じくして4日ずつ、5日ずつまであと少しである。5日ずつできるのであれば、ほぼ毎日継続していることになる。

 最初はうまくできなかったが、いつの間にやらできていることは多々ある現象である。やってみて、続けてみなければわからないからこそ、先の最上の「毎日」「継続」「根気よく」が生まれてくるのではないかと踏むのである。

 わたしたちは、時間的存在である。万物流転と古人はいった。時の変化はあれこれ操作できないが、どういう方に、どういう風に時を流すかは、わたしたちの手中にあると思われる。

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