一生懸命でなかったことは、次が見えない

最近は、試験の難易度が高くなってきた試験が多いようです。
しかし、コレは一過性です。

ゆとり教育は、詰め込み教育・受験戦争の反省から生まれた制度です。

なんでもそうなんですが、世の中の動きの中で、特に「教育」に関することは、遅れてしまうものなんです。

受験戦争という、どーにも細かい知識を問う試験制度・教育制度をどうにかしよう、という政策がゆとり政策です。

しかし、それが実行されたときには、少子化で受験戦争が終戦し始めたころだったのです。

「ズレ」があります。

このズレを、どう捉えるかが大事です。

不景気になると公務員の人気が高騰するように、資格で武装する人が多くなるため、どうしても難易度が上昇します。

それはそれで仕方がないので、結果に対して、試験の事情をあーだこうだ考えるのよしましょう。

それは仕方がないんです。

縄文時代に生まれたら鹿やイノシシを捕まえに狩に行かないといけませんし、弥生時代ならば稲作をしないのといけないのです。

それと同じことなんですよ。

同じ時間がないように、名前は同じでも、同じ試験もないのです。

試験の合否だけ考えると、周りが見えなくなります。

それこそ、失敗です。

近視眼的なものの見方になると、試験に受かっても実際の商売で通用しなくなります。

それこそ、完全な人生の不合格です。

試験を受ける人が多いと、必ず難易度は上るのです。

試験を受ける人が増える、というのは自然現象です。そういう自然現象の中で生きているのですから、本当に、仕方がない。

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あーだこうだいうのもわかります。

試験勉強から早く苦役から開放されたい、というのは誰もが思うことです。

個人的なアレで恐縮ですが、最近は〇〇士という試験を受けていません。
〇〇検定などの特権のない、自己啓発型の資格です。

ぶっちゃけいうと、こちらの検定型の試験は楽です。
簡単というよりも、おもしろいのですね。
「あーなるほど」と発見が多いのです。だから、意外に続けられるのです。

改めて、〇〇士系の試験や人気資格の「重さ」を感じているところです。
重いのです。ホント。

その苛立ちは、当然です。

しかしながら、試験の結果は、事実として受け止めるのが、その重さを「軽くしていく」コツです。

事情は、どうでもいいのです。

心の重さは、そのことについて考えるとより重くなります。

怒りや苛立ちは、重さを増やす最たるものです。

不合格への不公平感やらなんやらを、考えて怒り、イライラすることはより心の重みを増やしています。

それがますます、合格から遠ざかっていっていることに気付いてください。


一回で受かる人は、それなりの準備をしてきた人が大半です。
間違いなく、その試験に対して執着してきた人です。

おそらく、落ちた人よりも努力して、時間や費用を掛けています。

1回で、受かっちゃタヨ、という人はいます。
絶対的な可能性として、簡単な労力で合格してしまう人もいるのです。
択一ですから、可能性は絶対にあります。

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1回でスパッと受かる人は、います。

しかし、全員ではないです。多くの人が、その人なりのドラマを抱えながら試験対策をとって来た人たちでしょう。

要するに泥臭い人たちです。

うまくコンディションを整え、飽くことなく再記憶と問題演習を繰り返してきたはずです。

運で受かるほど試験も甘くないですし、運で受かっても多寡が知れています、ホントwww

「本当に合格したい!」と思えた人が、次の「次」で勝てる人です。

そう、その資格をうまく生かしていける人です。

結果的に、活躍していく人です。

その試験に執着した人は、その分、その資格の仕事や業務にも執着できていくのです。

早く取りすぎてしまうと、その資格への熟成が足りず、なんだかなぁと首を傾げてしまう人がいます。(我ながらwww)

戦っているのは目の前の試験だけではないのです。

試験後の「次」が本当の試験ですよ。

あーだこーだ、ギャアギャアいうのは、たとえ、再受験で試験に受かっても、「次」の試験で負けてしまいます。

落ちてもいいのです。

能力がない人が落ちるのは、自然現象です。

試験についての能力は、いくらでも付きます。

問題は一生懸命にやったかどうかです。

一生懸命やった人は、「あーココとココが出来ていなかったか。次は出来るようにしよう」「こういう考え方ではいけないから、その他の方法を追求してみよう」と考えて行くことが出来ます。

「あれ?コレって〇〇に使えないかしら?」と、資格取得後の業務のヒントも勉強をしながら拾ってゆけるようになります。

なぜなら、アタマを従来の使い方とは違う使い方をしているので、今までとは違ったものが見えてくるからです。

逆に、一生懸命でなかった人は、次が見えませんし、ひどいのになると、見ようともしません。

あーだこーだ、ギャアギャギャ〜いって、従来のやり方を踏襲する人のなんと多いこといったら。

そのやり方がイマイチあっていないから、おそらくはギリギリのところで落ちてしまったのです。

だから、ギャアギャア言いたくなる人は、実際のところ、あと一歩の人が多いのも確かなんです。

全く勝負にならなかった人は、何もいいませんwww


こういうことも、試験の醍醐味です。

土俵際で負けたときに、自分はどうなるかのテストなんです。
自分の弱さと儚さがわかるもんです。

試験を試験だけで終わらすか、それ以上のものにするか、なのです。

コレばっかりは自分でしか出来ない作業なんです。

自分にしか出来ない作業を、他人やその他のモノに求めても仕方ないですよ。

トイレを替わってもらうことが出来ないのと同じです。

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適当な人の適当な人への適当な読み物、其れが資格コラム。
コーヒーブレイクにどんぞ。

To another dokugaku.