「ノートについて」 資格試験というのは「記憶」が勝負です。どんな資格であっても、憶えない限り点数は取れないものです。 勝負はそこからだと考えていました。 試験に出るもの?。。。それは過去問や問題集に載っていることをベースにして、テキストを読み、それらを繰り返し憶えていく、これが「独学のオキテ」で紹介したディレクトリ型学習のポイントのひとつです。 記憶系資格の勉強は、賛否はどうであれ、上記したやり方がいいと思っていました。とはいえ・・・最近では少しずつ変わってきています。 そもそも、ノートを取ることに意味がないならば、ノートという文房具とノートに書くという行為が存在しないわけです。 何らかの利点があるからこそ、現存しているのだと。 そもそも、ノートの本来の意味は、『後で見直して、再構築する』ためにあったのではないかと思うのです。先生の仰ったことを一端、ノートに書いておく。そして、家に帰ったらそのノートを開いて自分の考えを改めていく作業が『前提』なのではないかと。 要するに「日々、三たび振り返る」みたいな役目にあったとw それはそれで、大変いい意味がありますが、資格試験、特に暗記が主体の試験では、「思考力」はほとんど問題になってきません。思考力を問う問題もでるようですが、憶えない限り解答できない問題がほとんどです。 だから、記憶型の資格試験では、きちんとノートを取るのはあまり意味がないと考えてきたのです。 フト思いましたが、わたしはこれまでノートの使い方を考えたことがありませんでした。 ま、普通に授業で黒板に書かれたことを写す、先生や教授、講師が言った事をメモ書きする。そんなくらいでした。 書き写しただけで憶えるなら、ノートなんて必要でないわけで、先ほどの意味の「日々、三たび振り返る」復習もしないなら、その書き写した行為は無駄ですね。 だから、アンチノート派だったのです。 ノートの本来の使い方、それは『自分の言葉でまとめ直す作業』といえるのではないかと思うのです。そのための補助ツールがノートだと。 もちろん、「テキストを写すだけで復習しない」「黒板を写すだけで復習しない」といったノートを取る行為は、今でも役に立たない行為だと考えます。 写して憶えるならコピーせよ、と。 社労士の例でいえば、「労働安全衛生法」というほとんど数字と語句で構成された表を憶えるのみの科目がありました。そのほか、その法令ではクレーンの免許の有効期限は何年とか、健康診断の診断科目とかγの値とかホント、ウンコみたいな問題がでていました。 ・・・テキストでは「赤線と赤文字」で書かれているのですから、憶えないわけにいきません。 こんなものをきちんとノートにまとめてもまったく無意味なわけで、そんなことをするより、語呂合わせか数字暗記の文章でも作っていたほうが、はるかに効率よくおぼえていけるでしょう。 最近、ノートはをこんな風に使っています。 まず、自分のわからないところにしかノートを取らないようにしています。 憶えたところ、単に知識だけの出題箇所はノートにまとめても無意味なので、アタマの中に放り込んでおきます。書くだけ無駄なので。 そして、どんな風に考えたら憶えやすいかなぁ〜とメモ書き程度にノートを取ります。テキストでの編成順序なんかばらばらです。5章の事があったと思えば、ノートの次のページには2章の内容がみたいな、感じですね。 とにかく、わからない、恐らくこれからも皆目わからないだろう事柄に出会ったら、関連付けながら適当にまとめています。 何がわからない?→それをノートの真ん中に書く。 わからないことは、テキストでどう説明されるてるの?→ま、こんな感じ? 用語や語句の中でわからんものは?→ある→どういう意味?使い方は? こんな風に適当です。参考にしたのは、畑村洋太郎さんの有名な著書「失敗学のすすめ」の第5章にある「思いつきノート」をベースにしてます。 とにかく、テキストの一番最初からまとめるような徒労はしないほうがいいでしょう。あの、学校の授業のようなノートは、あまり意味がなく、理由もなく綿々と受け継がれていっている習慣のような気がしてなりません。 学校等で行われる、ノートに書き留める行為ほとんどは、多分、惰性でしょう。 「道具を揃えよう」ではポストイットを紹介しましたが、大き目のポストイットを使えば、目次代わりのしおりになるし、どこに何をまとめたのかわかるので、大変便利です。 わからない箇所を、わかりやすくするために、自分の言葉に翻訳するためにノートは使っていけば、理解と記憶の足しになるのではないでしょうか?
|
適当な人の適当な人への適当な読み物、其れが資格コラム。 コーヒーブレイクにどんぞ。 To another dokugaku.
|